2005年09月07日
■嵯峨野・釣殿にて
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いくらか秋めいてきた、とは云へ日中はまだ夏の暑さが残る今日この頃である。

涼を求めて夕食は嵯峨野あたりで食べやうか、と云うことになり、妻の手製のちらし寿司とお茶とお菓子を持って車で出かけた。

静かで美しい嵯峨野には後宇多天皇陵もあり、15分も歩くと直指庵(じきしあん)、瀬戸内寂聴さんの住む寂庵など…。

旅の女性には隠れた人気スポットでもある。

久しぶりに二人で広沢の池の辺りを散策していると小さな立て札に「釣殿ひろば」と書いてあった。

そこには10個位の椅子が適当な間隔で設らへてあり、ここでわが家の夕食をとることにした。

源氏物語、第26帖「常夏」では暑い日に源氏が「釣殿」に出て夕霧や、柏木中将たちと酒を飲んだり水飯を食べながら…おしゃべりをする場面がある。

そんなことを想い浮かべて、ちらし寿司をゆっくりと食べた。

冷たいお茶も飲んで少しだけ光源氏の気分を味わった。

目の前に広がる「田んぼ」には、やゝ色づき始めた稲穂が夕風に揺れ、いなごが跳ねて、赤とんぼが飛んでいた。

夕暮れ時の嵯峨野はもうすっかり秋の気配が漂い風流な夕食会となった。

《 絶句!》




2005年09月14日
■烏相撲
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吟行句会で北区の上賀茂神社を訪ねた。

重陽の節句の伝統神事、烏相撲(からすずもう)を見物に来たのである。

烏相撲は上賀茂神社の祭神の祖父が「八咫烏(やたがらす)」に姿を変へて神武天皇の先導役を努めたと云ふ故事と、子の成長を願ふ信仰行事としての相撲が結びついて行われるやうになり、今では京都市の無形文化財に登録されている。

簾が掛けられた細殿の中央には斎王代が侍従、女御たちを従えて土俵を見守っていた。

澄みわたる秋空のもと、白装束に烏帽子(えぼし)姿の氏子二人がチョン、チョン、チョンと横飛びして、「カーカーカー」とカラスの鳴き声を真似るユーモラスな重陽神事が執り行われ、多くの見物客からどよめきが起きていた。

その後、地元の小学生20人が、真っ白なまわし姿で元気いっぱいの相撲を見せてくれた。

広大な境内の松の木あたりから本物のカラスの鳴き声が聞こへ、周囲の笑いを誘っていた。


  斎王代に 一礼をして 宮相撲


  宮相撲 子供力士の 尻白し




2005年09月21日
■総合病院にて
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厳しい残暑の中、湿疹の治療の為に意を決して近所の総合病院へ行った。

病院の中は大勢の人でごった返し、病院とは思へない程の活気が満ち溢れていて「何んじゃこりゃ〜」と思った。

窓口で診察の申し込みをすると、長い廊下の中程にある皮膚科の前で待つやうに言われた。

廊下両側には椅子が並べられ、その椅子に座って待つ人の視線を痛いほど感じながら皮膚科の前まで歩いた。

椅子に座って待つ事2時間半、私の目の前を沢山の人が往来する。

実に様々な患者を取り巻く人間模様、病人看護の家族愛…など、人生の縮図みたいなものを垣間みせて頂いた。

除々に廊下で待つ人が少なくなった頃、しゃれた服装で、女優の松坂慶子に似た人がこちらへ向かって歩いて来た。

そして皮膚科の隣で「泌尿器科」の前の椅子にゆっくりと腰を下ろした。

松坂慶子と泌尿器科?私の頭の中ではそのギャップはあまりにも大きく、生きることの苦しさと尊さを学んだやうな気がした。


  人生は 色々ありて 秋暑し



2005年09月28日
■寂光院にて
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素晴らしい秋空に誘われて「平家の里」で有名な洛北、大原(おおはら)を訪ねた。

小鳥のさえずる大原は四方を山に囲まれ、実に閑静で心の落ち着く里である。

木陰に腰を下ろすと秋の田園風景がパノラマ式に広がって、黄金色に輝く稲穂と、燃へるやうに群れて咲く赤い彼岸花の色の競演にしばし見とれた。

その後、街道から山中へ800mほど奥に建つ寂光院へと向かった。

寂光院は594年に聖徳太子が建立して以来、貴族の姫によって法燈が守り続けられた尼寺である。

1185年9月には平清盛の娘、建礼門院が入り壇ノ浦で滅亡した平家一門と我が子、安徳天皇の菩提を弔いつつ終生を過ごした寺である。

ここへ来て夜のことを想像すると…
とにかく淋しい所である。

あの祇園で有名な詩人、吉井勇もここを訪ね、

「うつし世の淋しさこゝにきはまりぬ
             寂光院の苔むせる庭」
と詠んでいる。

また、与謝野晶子も

「ほとゝぎす治承寿永の御国母
            三十にして経よます寺」
と詠んでいる。

そして私は、

  寂光院 義経人気で 賑はへり

と詠んでみましたんやわ。



2005年10月05日
■詩仙堂にて
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私の主宰する「楽々波(さざなみ)会水墨画教室」の有志6人に誘われて、水墨画風景の画題を求めに左京区一乗寺あたりの散策に出かけた。

瀟洒な家が建ち並ぶ北白川通りから曼殊院通りを東へ向ふと静かな里風景となり、比叡山のふもと雲母(きらら)坂にさしかかる。

最初からの予定通り、この辺では有名な老舗のそば屋へ入り腹ごしらえをする事にした。

やはり、絵でも描こうかと云うやうな女性はそれぞれに個性が強く食事の注文が中々決まらないのである。

それまで静かな店内が少しだけ賑やかになった。

楽しい食事でお腹もふくれ気持ちの良い秋の日差しを浴びながら雲母坂をゆっくり歩いていると、煎茶(文人茶)の開祖、石川丈山が造営した美しい庭で有名な「詩仙堂」に辿り着いた。

中へ入ると心が洗われるやうな日本庭園が目の前に広がった。

こんもりと丸く剪定された沢山のさつきが印象的だ。

縁側から外へ出て皆で歩いた。

萩の花が咲き誇り、背の高いススキがここでは特別美しく見へる。

清貧の暮らしの中から聖賢の教へを学ぶことを自分の信条とし、これを楽しんだとされる石川丈山のお人柄を偲びつつ私もこの庭を散策させて頂いた。

そして私もできれば老後に丈山のやうな生き方をしたい…と思った。


  雲母漬け 病みつきになる 旨さかな



2005年10月12日
■昔って言ふ奴
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近所に住む友人のIさんから「たまには遊びに来てや〜」と電話が入り久しぶりに伺った。

70才を過ぎて今なほ世話好きで元気のよいIさんは、私が行くと「おぅ、待ってたんや〜」と言いながら屈託のない素敵な笑顔で迎へてくれる。

若い頃には小料理屋を営んでいた奥さんと、先斗町(ぽんとちょう)、木屋町(きやまち)辺りで流しの演歌歌手として、ギター片手に渡り歩いたIさんである。

日本経済が高度成長時代に入り大繁盛していた頃の花街の様子や、酔い客を相手のIさんの苦労話などを聞きながら結構楽しいひと時を過ごすのである。

少し酒に酔ったIさんは古びたギターを爪弾きながら、
フランク永井の『妻を恋うる唄』を歌ってくれた。

♪いつでも荒れた手をしていたね
  エプロンの端まさぐりながら
  首をかしげて笑うのが
  朝のお前の癖だった
  送ってくれる人もなく
  毎朝勤めに行く僕を
  お前はどこで見てるんだ
  僕の声さえ届かない
  空え昇っていったきり
  お前は帰って来ないのか…

♪お前の髪の匂いがするよ
  ひとつの櫛を二人で使う 
  これが貧しい僕達の
  いつもして来た癖だった
  曇った鏡ふきながら
  涙こぼしている僕を
  忘れてどこえ行ったんだ
  僕の眼にさえ届かない
  雲の彼方え行ったきり
  お前は帰って来ないのか…

歌い終えたIさんの眼から涙がこぼれていた。


  長き夜 友の涙の 演歌かな



2005年10月19日
■光悦寺にて
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大胆でユーモラスな風神、雷神図でお馴染みの本阿弥光悦は書、絵、陶工、蒔絵、彫刻など幅広い分野で活躍した日本を代表する江戸時代の芸術家である。

全てに優れた理想的な「万能人間」として今でも多くのファンを持つ偉大な人物である。

その光悦が京都洛北、鷹ヶ峰に徳川家康公より広大な土地を与へられ、一族縁者と様々の工芸職人達と共に住居を構へ「スーパーマン・光悦」を中心に質の高い工芸集落を作り営んだのである。

閑かな鷹ヶ峰三山を見渡す景勝の地で働く多種多様の工芸職人の忙しい姿を想像するだけでもロマンに溢れ心がうきうきしてくる。

私は何故か京都の伝統工芸の「物作り」の形態のルーツが、この辺りにあるやうに思へてならない。

そのことを考へていると今から400年前に合理的な発想と指導力で芸術の新しい形態を確立した光悦の功績はあまりにも大きいのではないだろうか…。

寛永14年2月3日、天寿を全うし人生80年の幕を閉じた。

光悦の住居跡は今では光悦寺として残り、茶人好みで有名な光悦垣を設らへた静かな庭園となっている。

少し色付き始めた紅葉を愛でて美しい苔むす庭の一角にどっしりと立つ『光悦翁』の墓に詣でた。

そして芸術に携わる者としてここを私の心の故郷と勝手に決めさせて戴いてよろしやろか〜?
と…心の中で尋ねてみたんどっせ。 


  紅葉狩り いの一番は 光悦寺



2005年10月26日
■高島屋にて
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若い頃「芸生」とか「芸新」と云う美術雑誌を本屋でよく立ち読みしたものである。

雑誌に出てくる画家の中で特に印象に残っているのが『小倉遊亀』と云ふ縁起の良い名前の文字だった。

「遊亀(ゆき)」…この画家の未来を見通すやうな素敵な名前だと思った。

以来、私の脳裏には「遊亀」のしゃれた二文字だけがインプットされ何十年と云ふ永い歳月が流れた。

そして今日は、久しぶりに懐かしい人に逢ふように胸をワクワクさせながら京都高島屋グランドホールで開催中の「小倉遊亀展」を観に行ったのである。

絵がきらめいている。

枝まめ、玉ねぎ、ピーマン、ぶどう、茄子などが画面から飛び出てきそうな迫力である。

近代日本画壇を代表する小倉遊亀さんは作品での数々の受賞はもとより勲三等瑞宝章。

その後、日本美術院理事長に就任。

女性として三人目の文化勲章。

さらに奈良女子大学名誉博士号の称号も授与され、名実ともに文化功労者となった。

晩年も優しい家族に囲まれて悠々自適の境涯で絵を描き続け、平成12年、享年105歳で逝去されたのである。

「生誕110年記念展」のこの会場には多勢の客が入り作品の前でため息をつく人がいた。

105歳になって描かれたマンゴの絵の前では私も思わず「ウ〜ン」と、うなってしまった。

そして心秘そかに遊亀さんのご冥福を祈ったのである。

  《合掌》